論 文
映像表現・理論コース/理論・批評専攻による2020年度の卒業論文を掲載しています。
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※ 2021年3月14日〜21日をもって本文の公開は終了いたしました。
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成瀬巳喜男の「音」効果
川村 萌々香
<概要>
日本映画史に名を刻む巨匠・成瀬巳喜男の作品について音楽効果に着目して論じる。偉大な監督と呼ばれる人々は大抵の場合、演出論の一部として音楽について語られたり論じられたりしてきた。それはひとえに音楽が映画の重要な構成要素の一つであるからに違いない。本論のテーマを決定するに至った大きな理由のひとつは、映画の研究において「音」が蔑ろにされているのではないか、という疑問である。そのため、本論で取り扱う映画音楽とは伴奏音楽に限らず、広く音楽効果全体を指す。本論は、今まで明確に論じられることがなかった成瀬作品における音楽効果について、成瀬自身が映画における音楽の役割をどのように認識していたのか、またこれまで成瀬の「作家性」の特徴とされてきた女性性や高い美術性に音楽効果との関連性はあるのか、ひいては成瀬作品における映画音楽にはどのような特異性があるのかを探ることを目的とした。
フリードリヒ=ヴィルヘルム・ムルナウ論
─融解してゆく境界にみるムルナウの世界像─
大濵 衣
<概要>
フリードリヒ=ヴィルヘルム・ムルナウは、サイレント期のドイツ映画を語る上で欠かせない重要な監督である。特に、最も有名な作品として知られる『最後の人』(1924年)で最高潮に達した独特なカメラワークなど、彼が後の映画史に残した功績は計り知れない。しかし、不運なことにムルナウは『タブウ』(1931年)の公開直前に交通事故に遭い、志半ばにして生涯を終えている。そのせいもあってか、同時代に活躍したフリッツ・ラングやエルンスト・ルビッチに比べ、ムルナウ個人だけを取り上げている国内の先行研究はあまり多くない。そこで、本論文では「境界」にテーマを絞り、彼の確立された映画作りのスタイルを見出すことを第一目標としている。そのために、各作品に現れた境界のモチーフを ⑴物語構造における境界、⑵映画技法によって表現される境界、⑶ムルナウの内なる境界の三つに分類し、多角的な視点でムルナウの世界像を探っていく。
バスター・キートン論
〜無表情の再考と新ジャンルの確立〜
渡部 菜南
<概要>
世界三大喜劇王の一人であるバスター・キートンだが、彼の作品は今まで当たり前に「喜劇」として受け入れられてきた。しかし、彼の作品を見ていくうちに、顔の表情を変えないまま、危険なアクロバットやスタントを淡々と自身で行う様子は、一概に「喜劇」と言えるのだろうか、という疑問が生まれた。そこで、本論文では、最大の特徴とも言えるにも関わらず、今まで簡単にしか言及されてこなかった“無表情”に焦点をあて、キートンの全作品を、「ロスコー・アーバックルの助演時代」「全盛期である1920年代」「MGM時代のサイレント作品」「トーキー参入後」「晩年」と、5つの時代に分けて順番に論じ、キートン独自の「ストーン・フェイス」を再考する。さらに、その過程で見えてくるキートン映画の新たな一面を、をただの「喜劇」として分類するのではなく、新たなジャンルとして位置づけていきたい。
増村保造論
なぜ増村は登場人物を殺すのか
田迎 生成
<概要>
日本映画特有のじめっとした情緒を一切排除し、自己主張をする芯の通った女性を描き、“日本映画に新しい風を吹かせた監督”というのが通説になっている増村保造。増村についての文章は多く存在するが、“なぜ多くの増村作品の登場人物が死ぬのか”について、言及している文献がひとつもない。そこで、本論文では、第一章で増村作品の「先行研究における評価」を述べ、第二章「増村作品の「死」の意味」では、『からっ風野郎』などの「死」が特徴的な作品から、作品ごとの「死」の意味を考察している。第三章「「死」と若尾文子の人生」では、若尾文子出演作品を『青空娘』から『千羽鶴』まで、年代順に見ていき、若尾文子の変化と、「死」を照らし合わせて、増村作品の中での若尾文子の人生を述べている。第四章「死と血、+肉体」では、増村のこだわりを感じる「血」と「肉体」の魅せ方について述べている。これらの四つの章を踏まえ、「増村保造はなぜ登場人物を殺すのか」を導き出した。
ロベール・ブレッソン論
―「シネマトグラフ」の解明―
菅原 光梨
<概要>
フランスの映画監督ロベール・ブレッソンは、『シネマトグラフ覚書』で「シネマトグラフ」という言葉を多用しているにも関わらず、国内で「シネマトグラフ」と「シネマ」の違いについて論じられてこなかった。本論文では「シネマトグラフ」とは何であるのか具体的にし、「シネマ」との違いを明らかにした試みである。
ブレッソンの定義によれば「シネマトグラフとは、運動状態にある映像と音響とを用いたエクリチュールである」であるが、具体性がない。国内の先行研究では清水千代太、飯島正、フランスでの評価としてジャック・ベッケルやマルグリット・デュラスなどの批評を取り上げた。第2部は「シネマトグラフ」の起源であるリュミエール兄弟を振り返り第3部は「シネマトグラフと観客」という新たな視点も踏まえ結論ではシネマトグラフとは一つの芸術であると定義づけた。
ヴィスコンティの女性像
岡部 紗季
<概要>
生前からホモセクシャルを公言していたイタリア映画作家のルキノ・ヴィスコンティの作品に登場するからは、度々女性に対する恐怖心と畏怖が読み取れる。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と『夏の嵐』に登場する破滅していくヒロイン達に共通点と、ヴィスコンティの作品の多くに関わった女性シナリオ作家のスーゾ・チェッキ・ダミーコによる見解を交えた相違点を分析していく。
また、イタリアネオリアリズモ作品に多く登場する娼婦は、監督によってどのように描かれてきたのかの比較し、彼女達が社会的にどのような役割を果たしたのかについて考察した。また家族の没落をテーマに掲げた作品を生涯撮影し続けたヴィスコンティの母親像の真意にも迫る。
第三章では、貴族一家出身であり、美貌の持ち主であったヴィスコンティは、複数の女性から激しく迫られた事により、彼のエロティシズムは大きく変化し、男性に女性像を見出した推測に根拠を述べていった。
映画監督ヴィットリオ・デ・シーカ論
〜日本での受容史をめぐって〜
苧野 純平
<概要>
ネオレアリズモを代表する映画監督の一人、ヴィットリオ・デ・シーカ。その名声に対して彼について書かれた文章は到底十分とは言えないものである。
本論文は、日本の受容史を中心に彼に下された評価の正当性を、現代の視点から問い直すことを主題においた。特にネオレアリズモ崩壊後、デ・シーカが喜劇、メロドラマに歩みを進めてゆくとその存在は忘れられてゆく。『自転車泥棒』でイタリア映画の一つの頂点へと至った彼が、何故忘れられた存在になってしまったのか。現在鑑賞できる作品のすべてを詳細に見てゆくことでその原因や彼の描きたかったもの、彼自身に起きた変化などを一つ一つ紐解いていった。
結果として彼の評価が落ちていった原因には社会状況などの外的要因が多く考えられた。テーマこそ時代にそぐわなかったかもしれないが、彼の優れた人物描写は現代においても通じる優れたものであり、再評価される価値のある監督の一人であることは間違いない。
ジャン=リュック・ゴダール論
―女性への視線の変容をめぐって―
佐々木 淳太朗
<概要>
本論文は、ゴダールの「女性への視線」をテーマに彼の内面に踏み込んだ研究を目的としたものである。
『勝手にしやがれ』で長編映画デビューを果たしたゴダールは「異国の女性への謎」として最初の「女性への視線」の問題に取り組むこととなる。しかし、本作ではその謎に踏み込むことはなく「異国の女性への謎」は謎のまま幕を閉じる。その後のアンナ・カリーナと出会いによって新たな「女性への視線」に踏み込んでいくこととなる。
アンナ・カリーナとの出会いから新たな視線を獲得したゴダールは本論でとりあげた『女は女である』、『女と男のいる舗道』を経て「異国の女性への謎」という視線から、『気狂いピエロ』で大きな変化を遂げる。先の二作品は『楕円形の肖像』の如く妻であるアンナ・カリーナの美しさの保存に勤めていたゴダールだったが、彼女との破局によってゴダールは女性をこれまでとは違った視線で捉え、これまで描いていた「生活」から「人生」を描くことを宣言する。カリーナとの別れの後、ゴダールはヴィアゼムスキーと出会う。そして政治映画の時代が訪れる。この時代のゴダールは「人生」を描き、女性への視線もこれまでの「美」的視線から「知」的視線へと変化した。そして商業映画からの決別とともにヌーヴェル・ヴァーグが終わったのであった。この美の放棄が後年のゴダールのフェミニスト的視線へと繋がっていくのである。
奇妙な「食」から見るヤン・シュヴァンクマイエルの思想
浦上 宥海
<概要>
チェコスロヴァキアの芸術家、ヤン・シュヴァンクマイエルについての先行研究は、どのような方法であの映像が作られたのかというアニメーションや映像技法的アプローチと、チェコの共産主義時代とシュヴァンクマイエルの経歴を合わせた政治・歴史的アプローチに二極分化している。シュヴァンクマイエルの映像作品の中で印象的な「食」について先行研究も幼年期への回帰と戦争体験による食への執着であるという解釈にとどまっている。そこで、シュヴァンクマイエルが作品の中で描く「食」を切り口に、レヴィ=ストロースの「料理方法」や「カニバリズム」といった論を手がかりにシュヴァンクマイエルの思想や哲学など内部に迫った新たな解釈を試みる。
清水宏論
−「社会的弱者への視線」をめぐって−
加藤 紗希
<概要>
監督清水宏について、現在最も知られている「実写的精神」の、周辺の作家性の発見を目指す。それにあたり小説家マルセル・プルーストから発想を得た「作家としての自我」に目を向け、清水の実生活から離れたアプローチで分析を行う。今回は清水が作品内で扱う「朝鮮」をはじめとする社会的弱者への視線から、作家としての自我を考察する。第1章で、これまで彼の研究で重要視されてこなかったサイレント期、トーキーで追求された「実写的精神」、「空間構成」に注目した先行研究を、それぞれ振り返る。第2章では第1章を踏まえ、清水作品の社会的弱者として、子供・女性・障害者・貧困層・朝鮮人労働者の5つを取り上げて、彼が目指す演出的役割を分析する。第3章で、清水の魅力と共に作家としての自我について論じる。また、清水作品の芸術性にも関わらず、彼がこれまで「忘れられた監督」と位置付けられてしまった理由の考察も試みる。