<論文概要>
大島渚は自身の全フィルモグラフィーにおいて、当時の日本の政治文脈に基づいた題材を用いてその体制、そして、構造に切込んだ批評的視線を基盤とし、同時代の論客はこぞって彼の「日本を問い続ける姿勢」に『日本の夜と霧』の討論シーンを彷彿とさせるような白熱した議論を展開させた。だが実際の大島映画のほとんどはそうした激しい闘いのイメージとは離れて、むしろ闘争による傷つきに満ちた内省的な意識を全体に漂わせている。本論では大島渚を「父なき世代」の代弁者として、「学生運動の騎手」として、彼の人生の歩みと映画作品とを安易に密接させ、鋭利な政治的信条の激しい訴えであるかのように作品を見つめることで見落としている細部はないのだろうかという疑問を始発点としている。男性表象の独自性に着目し、大島渚の新たな作家性の発見が本論の目的である。
本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。
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