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「」に対する検索結果が91件見つかりました

  • 「ジャン・ヴィゴ論」坂元 緋奈子

    <論文概要> 授業でジャン・ヴィゴ作品を鑑賞し、映像の美しさに惹かれ興味を持った。特に、作品における「祝祭性」と「光」の表現に魅力を感じたが、日本での評価は多様な編集や水中撮影をはじめとする技術面に偏っていたため、作品を分析し、ジャン・ヴィゴ論の再構築を図りたいと考えた。まず、これまでになされてきたフランス及び日本でのヴィゴ作品に対する評価を調べ、年代ごとにまとめた。やはり、編集や技術面、そしてヴィゴの反体制的な思考やアナーキーさに関する評価が大半を占めていた。次に、改めて構図や光の使い方などに着目し、作品ごとに分析を行った。分析をもとに、「祝祭性」と「光」に関する考察を行った。ヴィゴ作品には共通した「祝祭」というテーマが当てはまること、そして後期の作品においては「光」の表現と「祝祭性」に関連性があることがわかった。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「侯孝賢論」藤原 美嶺

    <論文概要> 侯孝賢は、台湾を代表する映画作家である。彼の代表作のひとつ『悲情城市』(1989)は、台湾最大のタブーとされてきた二・二八事件を題材として扱ったことで世界的にも評価されている。しかし、侯孝賢への評価は、1989年以降低迷している。本稿では、1990年代以降の侯孝賢作品に光を当てるべく侯孝賢監督の映画を大まかに⑴乗り物表象、⑵『悲情城市』における技法論、⑶無声映画的な手法と試みという三点に分ける。さらに各章で侯孝賢作品における特定のモチーフに注視し、映像的魅力に迫るものである。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「北野武論 北野映画における〈間〉」中島 幹太

    <論文概要> 映画監督・北野武は、現在に至るまで十九作品を製作した。北野作品の特徴としてよく挙げられるのがヤクザや暴力などだが、私は北野作品の〈間〉に大きな特徴を見出した。 そこで本論文では、映画内における拍と拍、動作と動作、台詞と台詞のあいだの時間的間隔、事象と事象のあいだの時間を〈間〉として定義し、その〈間〉が北野作品にどのような意味を与えているのかを考えていく。 第一章では北野作品における「暴力」と〈間〉の関係、第二章では、台詞や音楽などが排除されることによってもたらされる〈間〉を論じ、第三章では、北野作品における「お笑いの〈間〉」、そして北野作品の歩行シーンによってもたらされる〈間〉について論じる。第四章では、第一章から第三章で論じた〈間〉を踏まえ、北野が描く「生と死」について論じていく。 第一章から第四章までのそれぞれの〈間〉が持つ役割や意味を発見し、それにより、これまで先行研究などで論じられてきた北野武論とは異なる観点で、北野の魅力を見出すことが本論の狙いである。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「ルキノ・ヴィスコンティのネオレアリズモ」上村 渚

    <論文概要> ルキノ・ヴィスコンティの前期作品である、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』から『若者のすべて』までの計6作品を分析し、各作品の特徴を見出す。また、ネオレアリズモとの関係性も調査し、ヴィスコンティのリアリズムはどのように変化したのかを調査した。彼の独特な長回しは演劇に通じるものがあり、これが作品に荘厳な雰囲気を与えている。その一方で、登場する人物はネオレアリズモ作品に特有の社会的弱者である。この矛盾する二つの概念を調和させ、一つの作品としているところがヴィスコンティの最大の特徴である。理想化されていない等身大の人間を登場人物とし、社会との関わりを描写し、人間の本質を描くことがヴィスコンティの目標であったと言えるだろう。作品や舞台が違っても、ヴィスコンティの描いたリアリズムは「人間のリアリズム」であったと言える。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「大島渚論 大島映画の男性表象分析を通した作家性の再考」嶋田 萌

    <論文概要> 大島渚は自身の全フィルモグラフィーにおいて、当時の日本の政治文脈に基づいた題材を用いてその体制、そして、構造に切込んだ批評的視線を基盤とし、同時代の論客はこぞって彼の「日本を問い続ける姿勢」に『日本の夜と霧』の討論シーンを彷彿とさせるような白熱した議論を展開させた。だが実際の大島映画のほとんどはそうした激しい闘いのイメージとは離れて、むしろ闘争による傷つきに満ちた内省的な意識を全体に漂わせている。本論では大島渚を「父なき世代」の代弁者として、「学生運動の騎手」として、彼の人生の歩みと映画作品とを安易に密接させ、鋭利な政治的信条の激しい訴えであるかのように作品を見つめることで見落としている細部はないのだろうかという疑問を始発点としている。男性表象の独自性に着目し、大島渚の新たな作家性の発見が本論の目的である。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「田中澄江論ーー女の躍動と男の不在」林 香那

    <論文概要> 田中澄江は1950年代に活躍した脚本家の一人である。女性脚本家という括りで見れば、同時期に水木洋子や和田夏十が肩を並べているが、田中澄江に 関する書籍だけが存在しない。本論文では彼女独自の作家性を見つめ直し、それらの再評価を目的として、戯曲『つづみの女』、映画『稲妻』(1952)、『乳房よ永遠なれ』(1955)、『夜の河』(1956)、『女ばかりの夜』(1961)を取り上げる。どれもオリジナルではなく原作のある脚色作品だが、田中の手によって働くこと、愛すること、愛されることに貪欲でまっすぐな女性の姿が躍動している作品である。本稿では原作とシナリオとの比較、シナリオの未定稿と決定稿との比較などを通して、いかに田中が生々しく写実的な台詞やキャラクターを生み出したか迫っていきたい。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「アニエス・ヴァルダ論─ひとりの映画作家として」田﨑 優歌

    <論文概要> 「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母」と称され「女性監督」としての看板を背負い続けてきたフランスの映画作家アニエス・ヴァルダを「女性」という観点から評価することに反対意見を示し、彼女の真の作家性を探るべく研究を進めた。日本でも有名な作品から、日本未公開作品、またフランスでのテレビ放映作品まで幅広くヴァルダの作品を鑑賞し、彼女の映画の特徴や共通点について論じた。これまで指摘されることの多かったヴァルダの特有のドキュメンタリーとフィクションを融合させた演出や優れた色彩感覚について詳しく触れ、また私独自の発見である“映像の肖像画”という要素や、最愛の夫ドゥミが亡くなったあとのヴァルダの変化などこれまで語られることのなかった特徴についても詳しく論じた。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「アンリ=ジョルジュ・クルーゾー論 ー雰囲気の正体を探るー」吉田 悠夏

    <論文概要> ある日授業でアンリ=ジョルジュ・クルーゾー(Henri-Georges Clouzot)の『密告』(一九四三年)を見た。暗さや悲壮感、それらを含み、人間味を独特のサスペンス調で描いていることや、最後に向かって徐々に映画へと引き込むスピード感を上手く使った脚本と演出の展開に今まで感じたことのない何かを感じた。そこで、当時日本で公開され評論が存在する『恐怖の報酬』、『密告』、『犯罪河岸』、『情婦マノン』、『悪魔のような女』、『ピカソー天才の秘密/ミステリアス・ピカソ』の五作に関してのみでなく、日本で現在見ることの可能な『犯人は二一番に住む』、『二百萬人還る』、『ミケットと母親』、『スパイ』、『真実』、『囚われの女』、『地獄』のほか、フランスでDVD発売されている作品を含めて全十四作品を順に分析したい。 クルーゾーの雰囲気の正体について心理的描写の方法とその独自性を改めて分析・解剖し、「雰囲気」というヴェールに包まれた評価からクルーゾーの全貌を出来るだけ明らかにしていきたい。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「川島雄三を船で再分析する」増本 力丸

    <論文概要> 川島は自作について多弁に語る作家であると同時に、いくつもの 先行研究で論じられてきた作家だ。そこで私は船という新たな視点 から、川島の映画を分析していきたい。第一章では「川島映画の船 と人生観」について、船に乗って対話をするというシーンと、船を眺 めているシーンに分けて解釈する。第二章では川島映画を船とい う題材で分析することで、船が持つ効果を紐解いていく。第三章で は、それらを前提に「川島映画の船が向かう先」という題で、川島映 画における船が持つ意味を論じる。最後に、第一章から第三章ま での論を踏まえ、映画監督・川島雄三にとっての船とは何かについ て総括していきたい。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「ジャン・ルノワール論ーー作家主義と晩年の再考」二瓶 由海

    <論文概要> 本論文ではフランスの映画監督、ジャン・ルノワールの作品分析を中心として、彼のフィルモグラフィーと評価の移り変わりについて研究し、自らの視点でそれらの作品を捉え直すことを目的としている。 ジャン・ルノワールは主に戦前の作品――『大いなる幻影』(37)や『ゲームの規則』(39)などの代表作を監督し、フランスで最も偉大な映画監督として称されることが多い。しかし、第二次世界大戦でハリウッドに亡命した後の後期の作品に対しても、戦前と同じように評価する声が多く、それらの評価はカイエ・デュ・シネマ誌に寄稿し、後にヌーヴェル・ヴァーグとして脚光を浴びる若き映画作家達による作家主義政策に端を発していると考えた。 本論文では、ルノワールの一見輝かしい経歴やフィルモグラフィーに対して「呪われた映画作家」という表現を用いて疑問を投げかけた蓮實重彦の論考『ジャン・ルノワール論のために』を先行研究とし、全作品に触れ、相対化することによって今までの評価を再考することを試みている。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「木下恵介映画における浮かび上がる作家像‐女性の描き方を中心に‐」片山 ひなた

    <論文概要> 1950年代当時に黒澤明と並んで国民人気の高かった木下は、現在ではその知名度に差が開いている。時代が進むにつれて木下映画が国民に選択されなくなったため、映画界から存在感が薄れてしまった。そうなった理由は木下の作家像の曖昧さにあると考えた。本稿では木下の作家像を「女性の描き方」を中心に考察し、明らかにしていく。 第1章では『花咲く港』を分析し、木下のルーツを探る。第2章は『陸軍』、『大曽根家の朝』と『破戒』から木下の「戦争と国民」の描き方を見る。第3章と第4章では『二十四の瞳』、『お嬢さん乾杯』と『カルメン故郷に帰る』から木下の描く女性像を分析し、『夕やけ雲』と『惜春鳥』からは木下の描く男性に注目することで、作家像に迫る。以上の方法から、これまでは、彼の持つセクシャルマイノリティ的な個性と描かれる女性の幅広さが作家像を曖昧にさせていたことが判明した。そして木下恵介の作家像は、人間の弱さを美しさとして変換し演出する力にあると考えられた。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

  • 「川喜多かしこ論」佐々木 悠佳

    <論文概要> 戦前・戦中・戦後の日本をその著書の名の通り「映画ひとすじに」生きた女性、川喜多かしこは生涯を通じて日本の映画文化の発展に尽力した。戦前は、東和商事に入社して夫の川喜多長政と夫婦二人三脚で主にドイツとフランスからの作品輸入に努め、戦中は中国での仕事に注力した夫を影で支えた。そして戦後になると、彼女は戦前の作品輸入から一気に活動範囲を広げ、国際映画祭への出席を通して得た知見をもとにフィルム・ライブラリー運動、アート・シアター運動、エキプ・ド・シネマなど現在の日本の映画文化の原型を確立したのだ。しかし、日本の映画シーンにこれほどまでに貢献したはずの川喜多かしこはまだほとんど評価の対象になっていない。よって、本論文では彼女の著書2冊と雑誌媒体などへの多くの寄稿記事などを元に川喜多かしこという一人の映画人についてまずは彼女の生涯とそれに準ずる功績をまとめ、生前の彼女が残していた言葉を頼りに同時に生じた疑問を独自に解明していく。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。 About 映像表現・理論コース

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