『フィルターが邪魔をする』植野 芽久驟雨がくりかえす日々にこどもではない私、大人でもないわたしはいつしかあの苺を見失ってしまった社会から閉ざされたこの部屋で、ひとり寂しさを感じる少女そんな少女の生活を、彼女の瞳に映らないまた別の少女が淋しい目をして見つめている※本作は3年生の作品になります※ ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。▷ 映像表現・理論コース [映像専攻] の映像作品 About 映像表現・理論コース
驟雨がくりかえす日々にこどもではない私、大人でもないわたしはいつしかあの苺を見失ってしまった社会から閉ざされたこの部屋で、ひとり寂しさを感じる少女そんな少女の生活を、彼女の瞳に映らないまた別の少女が淋しい目をして見つめている※本作は3年生の作品になります※ ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。▷ 映像表現・理論コース [映像専攻] の映像作品 About 映像表現・理論コース
三年生の作品で、照明も美術もカラコレも、思い描いたものを映像に落とし込める技術力が素晴らしいと思いました。
それとは別に、
作品を最後まで見た時に感じた「息苦しさ」はなんなのか数週間考えており、少し見つかったので書きます。(息苦しさを覚えるほど印象が強かったということで、非難や苦言ではありません)
舞台となるワンルームで完結しているのがその閉塞感の理由かと思っていたのですが、考えを進めるうちに安易に部屋から出なかったところが逆に監督さんの鋭さなのではないかと思うようになりました。
若い(もしくは母になった)女性の視点であることは、未だ売り物になる今の映像業界・美術界です。
それは同時に、ハタチ前後の、「今、この時」に「わたし」がみているモノを特別だと思わなくてはいけないプレッシャーになってはいないでしょうか?
この作品は、小さな世界から出ないのではなく、その人生のある一時の限られたジェンダーの中からの発信では無いとありがたがってくれない外の世界へのアンチの表明のように思えました。
これからも、作者の方には、今その時でなくても、あなたが男でも女でも、特別な感性じゃなくても、好きに作って欲しいです。
以上、
映像の仕事で生活している「アラフォー女性」が書きました。
詩のようなモノローグ、グレイとピンクを基調にしたグレーディング、閉塞感のあるスタンダードサイズ。同じ空間を他人と共有しているように見える背徳感のある感じは映画『わたしたちの家』を彷彿とさせます。これはより多くの人の目に触れるべき良い作品だと思いますが、シンプルであるが故に音楽の(有無も含めての)使い方や“episode”という言葉(もっと些細な単位が良いのでは)については検証が必要かもしれません。