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「」に対する検索結果が110件見つかりました
- 「リメイクから観る監督西河克己」 北園 千聖
<論文概要> 本稿では、西河克己という映画監督がリメイク作品をどのように演出したのか。そして、この演出から西河作品に見られる独自性を発見することで、西河が映画製作を通じて日活にどのような影響を与えたのかを見直し、再評価をはかることを目的として分析を行ってきた。ここで重要な存在として、日活時代を吉永小百合、無所属時代を山口百恵という二人の女優の存在をあげている。この2人の女優がスターへと転身する足掛かりとなったのが西河の映画であることは間違いなく、また西河自身も彼女達の資質を見抜いた映画演出を行いながらリメイク作品を製作していた。同時に、西河作品に指摘される「独特の職人芸」や「格調」といった要素を紐解くと、そこにはかつての日本的な美しい風景描写や「縦の構図」「映画話術」といった伝統的な演出が画面を横断していた。女優の素質を活かし、演出する西河のリメイク作品はそれぞれの女優に見合った演出と現代性を纏いながら、一方で日本映画の「格調」を画面に横断させ、物語を展開していくのである。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「小津映画における衣裳の変遷ー1950年代から60年代の作品を中心に」 炭本 理智
<論文概要> 第一章ではモノクロ映画の特徴とカラー映画の特徴を論じ、それぞれを比較して違いを明確にして、衣裳が映画にどのような効果をもたらすのか論じる。また、小津が好んでいた赤色にも言及する。第二章では主に女性たちの着物と洋服のそれぞれの特徴や役割を論じる。また、女性たちがよく割烹着や前掛けを着用していることにも注目する。第三章では『彼岸花』(1958)から登場した「おじさん」たちについて論じ、「おじさん」たちが着ている服と女性が着ている服の違いなどを明確にする。第四章では主人公と主人公を取り巻く女友だちについて論じ、主人公との衣裳の違いやその立場について考察する。第五章では時代の変化によって俳優たちの衣裳がどう変わっていっているのかを論じ、小津映画における衣裳の役割を考察する。そして全体を通して、衣裳が映画にどのような効果をもたらしているのか、そしてそこに男女の対立や衣裳がどのように機能しているのかを検証することで、1950年代から60年代の小津映画における衣裳の変化を総括する。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「F・W・ムルナウの映画でみる恐ろしい共同体と一人の人間」 キム ヒョンビ
<論文概要> 今までのF・W・ムルナウの映画に関する研究は、彼の映画をドイツ時代とアメリカ時代に分けて行われる傾向があった。こうして二つの方向性に分かれてしまったムルナウの映画を貫く要素を求めて、本論文では「共同体」に注目する。 研究は「共同体」からはじめて、それを構成する「一人の人間」と、その二つが出会う「空間」を分析する。抽象的な概念はムルナウと同時代に活動していた諸学者の理論に合わせて明確にし、ムルナウ映画の物語構造から人物の心理や二項対立に置かれた空間の隠喩も見出す。 ムルナウは、共同体を不安の象徴として、また主人公の居場所の擬人化として物語の展開に活用する。彼の映画において共同体は、それが個人に及ぼす影響に対する「好奇心」による純粋な「記号」となっている。必然的に共同体に属して生きるしかない一人の人間として、自分の共同体とその一員としての自分を省みるようになる力を持った、恐ろしい記号なのである。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「映画館とは何か」 毛利 圭太
<論文概要> 映画を見たという実感を持たせてくれるのは、やはり映画館の大きなスクリーンで良質な音を迫力のある音量が出せるスピーカーである。しかしながら、プロジェクター、VRやスピーカー、ヘッドホンといったものが選り好みをしなければ手に入りやすい値段で「大きなスクリーン」「良質な音響」が手に入れることが出来るようになり、映画館における環境の神格化が崩れようとしている。しかしながら、映画館で映画を見に行く行為には未来永劫、価値があると信じている。それは何故か、茨城県那珂市に位置する「あまや座」との出会いである。最寄りの駅に辿り着くまでの電車が1時間に1本といった時代に逆行した位置にある。映画館自体は小さいが細かなところでこだわりを感じることができ、映画館に行くための理由である”何か”がそこにあるということを実感したのである。第1部では歴史的観点から、第2部では地方の映画館へ実際に向かい映画を鑑賞後、スタッフに取材を行うことで見えてきた映画館の価値の共通点を明らかにした。第3部においては映画館がどのようにすれば生き残るのかを考察した。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「大庭秀雄のメロドラマ ー『君の名は』を中心にー」 矢川 紗和子
<論文概要> 「メロドラマの巨匠」とよばれる大庭秀雄監督は、ラジオドラマや有名小説の映画化を数多く手がけた。代表作である『君の名は』三部作は、当時大衆から絶大な支持を得たものの、映画研究の対象とされることが少なかった。本論はその「大衆的」である『君の名は』を中心に、大庭監督のメロドラマにおける新たな芸術的観点を見出す。 特徴的な画面構造としては、「ロングショットで、かつ物越しに人物を捉える」点が挙げられる。メロドラマには重要要素である表情をあえてアップショットで収めず、遠くから物越しに捉えることで画面及び風景の中に溶け込ませている。この特徴は『君の名は』以外の作品にも見られ、メロドラマを日常の中に落とし込む手法として機能している。 またメロドラマの舞台に含まれる意味についても言及した。特に『君の名は』では花言葉に着目し、物語や人物描写との関連性を研究した。 主に画面構造について取り上げ、人物描写や台本比較を行った上で大庭監督ならではのメロドラマ作りについて言及した。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「レオス・カラックス論 〜身体性を呼び起こす流動体〜」 石井 瑞樹
<論文概要> レオス・カラックス作品に欠くことのできない火や水といった流動性のモティーフ。それは画面上を彩るただの装飾ではなく、また我々の眼を刺激するアトラクション的なものでもない。火や水などの個別のモティーフは映画内のカットやシーンに対応しながら、それらが有するイメージを立ち表せる。この流動体の持つ物質的イメージがカラックス作品では巧みに用いられている。そしてカラックスはそれらのイメージを作品内に組み入れることで「身体性」というものを想起させようとする。それは現代において身体性を失っている我々のような存在へ向けら れたメッセージであり、決して直接的に身体性の賛美を行なったり、身体性の弱化への非難をするわけではない。このような流動性が持ち合わせる物質的イメージによって身体性の豊かさを観客は理解するのである。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「富野由悠季と母に関する表象をめぐって」 三好 恵瑠
<論文概要> 本論では、富野由悠季の監督した劇場作品から富野の思想を読み解くことを目的とする。分析の対象は連続アニメーションを劇場用にリメイクした5作品15本とし、また、富野の作品で常に大きな存在感を持ち、リメイクの過程で前景化される〈母〉の存在に着目する。なお、ここでの〈母〉とは実母のみではなく、集団における母親や、母親代わりをする少女たちのことも指す。 当初、少年を戦士へと成長させる存在であった〈母〉たちは、物語の主張そのものを担い、富野の思想が最も反映された存在となってゆく。最新作で、戦いの後の、未来を作っていく存在としても描かれた〈母〉たちは、時代を経るごとに、必ずしも男を必要としなくなり、〈集団の母〉として政治の中心にも立つようになるのだ。 このように変化していくなかでも、〈母〉に表象される富野の思想に一つだけ変わらないものがある。それは〈反戦〉だ。劇中、戦争の負の側面を強調したり、争いを止めるため奮闘したりする〈母〉たちには、現実世界で未だ成し得ない、戦争のない世界への願望が投影されてもいるのであった。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「ジャック・タチの再評価に向かって」 木越 圭哉
<論文概要> 私は、大学三年次のある日の授業で初めて観たジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958)に衝撃を受けた。彼の名前は日本でそこまで広まっていないが、ここ数年、さまざまな場所で再上映が行われていたり、ジャック・タチへの再評価が進んでいる。そんな彼について深く知るため、作品を全て見た後、彼の魅力について分析した。 彼の経歴を調べ、喜劇映画監督への道を歩み出した理由や、タチが喜劇にこだわる部分を深くまで分析することができた。彼が映画内でこだわる空間作りや音へのこだわりは現代の私たちも驚くほどの巧みな技術が隠れていた。 そして、『ぼくの伯父さん』(1958)の大ヒットから『プレイタイム』(1967)の大失敗にはどんな原因があったのか。ジャック・タチの再評価に向かって1ファンとして、彼への理解を深め、少しでも彼について知ってもらいたいという思いも込めた卒業論文。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「今村昌平映画における長門裕之の演技と身体」 塩崎 達也
<論文概要> 「今村昌平映画における長門裕之の演技と身体」は、スター俳優の起用を拒否し、自身の作品がプログラム・ピクチャーになることを嫌った今村昌平の初期5作品に起用された長門裕之に焦点を当てることで、今村昌平の作家性および長門裕之の演技と身体を解明する試みであった。今村映画における長門裕之の演技の言説を確認すれば「かみそりの刃のような軽さ」「隙間なく細かく演じる」と批評される二枚目半の演技が展開されるが、長門裕之の二枚目半の演技は今村映画に出演する以前に獲得され、また今村映画のみならず同時代の作品にも見られる演技スタイルである。すなわち、俳優に表現させることを希求した今村昌平と、今村映画に出演する以前に獲得した二枚目半の演技を展開する長門裕之との思惑が合致したことで、今村映画には長門裕之の二枚目半の演技が表出する。そして長門裕之の二枚目半の演技によって、重喜劇における喜劇的な身体、女性に対する道具的身体を呈した効果が見られると結論付けた。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 「日本統治下の朝鮮映画を中心に韓国と日本の評価をめぐって」 ジョン ジヒョン
<論文概要> 論文テーマのモチーフは観点の違いからくる様々な評価の間で感じた「疑問」にある。映画を見て分析していくにあたって、時代の背景に関連した「近現代史的視点」からの評価と「映画史的視点」からの評価の間で疑問を感じ、この疑問は両国の専門家たちはどのような観点から作品を見つめ、どのような評価をするのか。そして、その評価はどのような違いを持っており、歴史的視点の介入が映画作品評価にどのような影響を与えるのか。韓国映画史で最も明確に解決されていない部分は映画誕生胎動期の映画史をはじめ、植民地時代末期の国策映画ないし親日、御用映画に対する整理である。これは資料的にも人物史的にも多くの研究を要する事だったこれまであまり評価されなかった研究分野で、議論するには諸問題があり、積極的に取り上げられなかった韓国映画史の敏感な部分でもある。現代の視点から見た作品は、それぞれの作品が目立つ特徴を持っていれば、彼は決して否定的な側面ではなく、作品性の面で優れていたり、興味深いと言える部分だ。そのような作品に対して国策映画または親日映画という単語に焦点が合わされ、汚名を着せられた作品もたまにある。 上記の論文では、該当作品のそれぞれを現代の日本で映画を学習する韓国人の視線で分析し、当時の製作背景および批評文を通じて朝鮮映画に対する認識を喚起させ、今後関心を持って進まなければならない課題について記述した。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶︎ 対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 『屋久島道中』長田 花音
<あらすじ> 大学四年生、就職活動真っ最中の川瀬蕗は念願の宣伝職を得るため奮闘していたが、なかなかうまく行かず、宣伝職以外も視野にも目を向けようとしていた。そんな矢先、友人である桜の助言で、妊娠検査薬を使い、妊娠発覚。すぐに彼氏である裕太に連絡をするも既読のみつき、連絡が来ない。翌日から実家のある広島に帰省する予定だった蕗は、複雑な心境のまま帰省。そして父の計画した屋久島旅行に行くことになる。 裕太は蕗と連絡が取れないことから、共通の友人である桜に連絡し、蕗が屋久島にいることを知る。父がいるとも知らず、勢いで駆けつけた裕太は屋久島の旅館で蕗の父とも知らず、信彦と仲良くなり、川瀬親子と行動を共にすることになる。 信彦に裕太を彼氏ではなく友達として紹介してしまったことで、妊娠をしたことさえも父に言えなくなる蕗。翌日、11時間の縄文杉を見るトレッキングの最中、ついに裕太が信彦に蕗と付き合っていることを告白。怒る信彦の剣幕に足を滑らせた蕗は岩場で頭を打ち気絶する。 お腹を庇った状態の蕗を見て、裕太は蕗が妊娠をしていることも打ち明ける。 激しい怒りに駆られる信彦だが、救急車も来ることができないため、協力して蕗を担ぎ 帰りを急ぐ3人。川が増水し、橋を渡れなくなった3人は狭く、担架を担いでは入ることができない山道を使うこと余儀なくされる。元や信彦が蕗を背負うことができない中、裕太が蕗を背負いその道を歩くことになる。滑る道を一歩一歩踏みしめながら蕗を助けようと必死になる姿を見て、感動する信彦。病院に運ばれた蕗はそこで妊娠をしていなかったことが発覚し、信彦や裕太とも関係が修復する。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。
- 『一生一石』根岸 千尋
<あらすじ> 石を愛する女子高生と、その周囲の人間を描いた青春群像劇。 優柔不断で熱中するものが何も無い春樹。自分の気持ちを言えない桃香。SNS中毒の美術部員の蓮。親と不仲で不登校の咲良。彼らはそれぞれ悩みを抱えていた。 春樹は、進路について悩んでいたある日、同級生の美波に一目惚れする。彼女は石をこよなく愛し、探石と呼ばれる趣味に熱中するクラスでも異質な不思議ちゃんだった。 桃香は家が貧乏であるが仲間はずれにされないために、無理に友人に合わせていた。美波と出会い、『自分の一生一石を見つけたい』と語る美波に惹かれていく。蓮はSNSで人気の彫刻家。評価されるものを作れば『作品に愛がない』、好きな観音菩薩を作れば『学生らしくない』と笑われる。蓮が捨てた観音菩薩を美波が拾ったことをきっかけに、美波に彫刻を教えることとなる。咲良は美波の祖父・重明と出会い、心の拠り所となるが、一方で咲良は血の繋がる家族に愛される美波に嫉妬心をぶつける。熱中症で倒れた美波を介抱したことをきっかけに、春樹は美波の気持ちを知るため、自分を変えるために、一度諦めたギターを手にする。桃香は母親に負担をかけまいとバイトをしたいと懇願するが、自分自身を否定される。そして仲間はずれを恐れた桃香は美波と距離を置く。 突如、美波が学校を休む。春樹たちは学校を飛び出して美波を探すが、呆気なく見つかる。河原で石を探していたのだ。役に立たないことに真剣な美波の姿が、四人にはなによりも輝いて見えた。一度美波と距離をとった桃香だったが、川の中で諦めず必死に石を掴み取る美波に心打たれ、自分の気持ちを母親に伝える。その後、美波に声をかけた春樹は、『美波のようにやりたいことはまだ見つかっていないが、自分の一番を見つけるまで頑張ってみる』と宣言する。 変わらない日常の中で、少しだけ変化した四人の日々。美波は変わらず今日も一生一石を求めて、石を探し歩いている。 本文は日藝博期間中、江古田校舎で読むことができます。 ▶対面企画 ご感想はページ下部のコメント欄までお願いいたします。